先人、代々、そして今

こんにちは。黒田です。

 
 
 
 
 
 
 
ペコラ銀座お洋服研究日記。
 
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〜先人、代々、そして今〜
 
 
 
 
 
 
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何でもそうだけれど、今現在の中にはこれまでの歩みと積み重ねが存在する。そのことを、お洋服研究の読書を通じてより一層感じる。
 
今日は、いつもの「階級と服装」から少し離れて。
 
いくつかの書物と、とある人物と、代々続くテーラー3代目佐藤英明の探究心。色々混ざってるけれど、なんか繋がっている。そんな話。
 
 
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当たり前に思っている物事は、実は、そう当たり前でもないものである。そんな事を、生きている中で出会うことの許された様々な情報、そして人物から学ばせていただいている。
 
今という時間は、今までを築いてきた自分自身、それから自分以外の人や物事の、自分が生まれる前の前の前の前の前の、そのずっとずっと前の前からの積み重ねにまで遡る事が出来る、はず。
 
私は今、色んな書物から沢山のことを知る事が出来ている。でも書物を読みながら、いつも思うのは、「ここに書かれた情報は、‘たまたま’文字にされ、記録として残されたから、わたしは今知る事が出来た情報である」という事。
 
この世界では、文字を持たない言語の数の方が文字を持つ言語を遥かに上回るし、文字だけが伝承、継承の手段ではない。口承の文化はいくらだって存在しているうえに、文化としてどちらかに優劣があるものではないと思う。それに、人にとっての継承は、言語にのせた知識に限らず、「技術」や「姿勢」など人間にとってのかけがえのない宝物は言語にのせた知識に加えて沢山たくさんある。
 
その事を十分に承知の上で、一つ思うこと。
それは、文字にされ書物として残された記録と言うものの存在は、とってもありがたいものだなという事。
 
自らの知恵や見識を、文字に託し、書物として残した人の時間と労力そして想いには、深い感謝を抱くのである。
 
 
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さて。
 
 
 
 
ペコラ銀座店主、テーラー佐藤英明には「これは家宝の一つとも呼べる」という書物がある。それは、今は亡き渡邊先生に譲って頂いた書物、大正15年頃に出版された、丸山幸作氏による裁断書である。
 
 
洋服づくりの出発点であり、洋服づくりにおいて最も大切と言っても良い「採寸」。その採寸にペコラ銀座が採用している方法がショートメジャー方式である。ショートメジャー方式は、ミッチェル式と言う採寸法をもとに派生した採寸の考え方で、もともとのミッチェル式の採寸を日本に伝来した人物が、この裁断書の著者である丸山幸作氏。
 
ミッチェル式の採寸と言うのは、英国出身のアレキサンダー・ミッチェル氏と言う人物がアメリカに渡り、裁断学校を開校し、そこで教えていた裁断メソッドだそうで、丸山幸作氏はその学校で裁断を学びニューヨークでテーラーとして活躍していた。
 
当時、ニューヨークでは自身の店舗を持ち、テーラーとして大変な成功を収めていた丸山氏であった。その丸山氏は、彼の持つ高い洋服づくりの技術と知識がゆえに、日本での活躍を熱望され、おそらく1920年代の頃に(正確な帰国年まで、ペコラ銀座店主は現時点で把握出来ていないため、ここに記す事が出来ない)、当時の東京丸ビル、最上階という一等地に高級洋服店を用意され、そこに迎え入れられる形で日本に帰国した。
 
この丸山氏のニューヨークでの活躍と日本へ帰国の経緯は、丸山幸作氏の晩年に深い付き合いのあった渡邊先生より佐藤英明が直接聞いた話である。また、ペコラ銀座の採用するショートメジャー方式の採寸が、ミッチェル式の採寸から派生したものだと教えてくれたのも渡邊先生である。
 
 
 
では、そもそも佐藤英明がショートメジャー方式を採用しているのはどうしてか。その大きな理由の一つは、佐藤英明の父親がショートメジャー方式の採寸を学び研究する一人であったから。
 
父から、最初にショートメジャー方式の採寸を学んだ佐藤英明。その後、日本で五十嵐九十九先生のもと、パリでの裁断学校において、そしてミラノのマリオ・ペコラ氏のもと、様々な採寸、裁断方法を学び自らいろいろ試してみた中で「難しいけれど、やっぱりショートメジャーが自分にとっては一番良い」と思うに至ったそう。
 
そして以来、彼は日々、この採寸法を独自に研究し、経験を重ね、今もなお追求し、考え続けている。
 
 
 
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丸山幸作氏の裁断書の冒頭は、ミッチェル式の創始者であるアレキサンダー・ミッチェル氏本人と、ニューヨークのミッチェル裁断学校からの‘優秀な丸山氏を推薦する’旨の推薦文で飾られている。これらの推薦文よりニューヨークでの丸山氏の活躍と成功、そして丸山氏の確かな知識と技術が裏付けられている事が伺える。
 
その一方で、当時の日本における洋服づくりには、まだまだ沢山の課題と伸びしろが残っていた事も伺える文が記されている。
 
裁断書には、当時のニューヨークの雑誌社より、ミッチェル氏やミッチェル裁断学校と同様に‘丸山氏を推薦する’旨の文が掲載されているのだが、この文章の締め括りには次のように書かれている: 〜 この新しい著書は、洋服の裁断と作製法が‘大問題である日本’におけるこの業界にとって、特に有益なものとなるであろう〜
 
さらに、丸山幸作氏自身の言葉が綴られている自序においては、日本における洋服の需要が増加する傍らで「然るにその製品は今尚海外へ旅行するものには嫌われがちで、久しく内地に滞在する外国人等の満足をさえ得る事の少ないと言う有様は、どうしたものでしょう。」と言及し、日本における洋服づくりの従事者は「今日一段の努力と覚悟を切に要するのであります。」と綴っている。そしてこの自序の最後には、「本書は著者が多年欧米人や東洋人に接して抜き實地に研究すて得た全収穫であって、決して一夜造の草案ではない」とし、その裁断書が邦人が適切な学習が行える他の書とは異なる独自の試みである事を記し締めくくっている。
 
 
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時は大正15年であった。その当時は、裁断書に記されるように、日本の洋服づくりには丸山氏の考える「まだまだ」その先の極めなければならない技術と知識があったのだろう。そして、その「まだまだ」を見極める目を持っていた丸山氏が裁断書に託したのは、自らの知識と経験のすべて、それから日本における洋服づくりの文化の発展と繁栄への願い、そしてそこへの貢献の決意であろうか。
 
 
 
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丸山氏の裁断書とは一瞬離れるが、
 
お洋服研究読書物の中の一冊に「服装、2万年の歴史」の分厚い本がある。この分厚い本は、「衣服」と「衣装」をどのように考えるか?と言うところからはじまっている。人間がその身体を覆い纏うものは、どこまでが「衣服」で、どこから「衣装」となるのか。そんな問いかけから始まる2万年の服装の歴史の本。
 
 
丸山氏の裁断書に戻って。
 
「衣服」と「衣装」の境目の、どこまでがどうでどこからがどうなのか。これと一見異なるようで、似たような境目が、服において色んな時代で、色んな次元で、色んな角度から浮かび上がると思う。
 
大正15年の丸山氏の「まだまだ」と言うところから比べると、今現在は、進化をしているかもしれないけれど、今現在にもこの先の「まだまだ、これから」が存在する。
 
先人、そして代々歩んできた人々のお陰の上で、今現在の私たちがある。そのことへの感謝を忘れず、同時に、これからの、「まだまだ」の続きを私たちは探求し続けなければならない。
 
 
 
 
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「まだまだ、この先」の探求は、必ずしも目新しいものを取り入れるばかりの作業ではないだろう。昔を知り、そこから学び直すことによって進んでいくこともできる。
 
 
ペコラ銀座店主、佐藤英明は
「採寸、裁断方法は、結局ひとりひとりのテーラーが自分で色々試して経験を重ねながら、個々で確立していくものだと思う。けれども、やっぱり自分一人の生きた時間で経験が出来る量は限られてるから、先人の残してきた経験値から学ばせてもらうのは、すごく良いこと、ありがたいこと。」だと言う。
 
それから続けて、「でも、どんな裁断法を学んでも、やっぱりそこから更に自分自身で追求していく事が、本当に‘フィットする事’への道となるんだ。結局、人の身体に合わせる事、フィットさせていく事、と言うのは、採寸、裁断法に加えて、自分自身の経験と考えを重ね合わせていかなければならないんだ。」と言う。
 
「僕は、いつも、何かしらの‘発見’と出会うことを意識してる。何かひとつでも、そう言う瞬間と出会うと、それが今までの自分の経験値とかけ合わさって、自分の中で洋服づくりに活かせる新たな要素を見出せる」と。
 
 
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先人、代々、そして今がある。
 
そして今のこの先は、自分自身と言う存在でもって創造し未来につなげていく。
 
 
 
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最後に。
 
 
ペコラ銀座店主の洋服づくりへの探究心、先人への想い。これらを一度に記すことはむずかしい。
 
そのうえ、まだまだ、探求の道を歩んでいる真っ只中にあり、まだまだ言葉にならない想いもたくさんある。
 
そんな中、どこまで書けるかは、分からないけれども。
ペコラ銀座店主、テーラー佐藤英明の洋服づくり探究のことを、この研究日記にも少しずつ織り交ぜていけたら良いなと思う。
 
 
先人への敬意込めて。
 
洋服づくりのこの先の未来への願いを込めて。
 
 
 
 
 
 
 
memo…私たちは個々でありながら、永い積み重ねの一員である。
 
 
 
 

それは手間隙という名の富である。

こんにちは。黒田です。

 
 
 
 
 
 
 
ペコラ銀座お洋服研究日記。
 
<page.6>
 
〜それは手間隙という名の富である。〜

 

 
 
 
 
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ある作家の講演を聞きに行った際に、その作家自身が実践する本の読み方として‘同時に数冊の本を読む’という本の読み方を知った。以来、私もその作家を真似て、本を読む時は側に数冊別の本を置いて読書することを好むようになった。
 
この研究日記で今主軸となっている「服装と階級」の本を読む側にも、その他複数冊の書物がある。
 
本を読みながら沸き起こる、「ん?これどうゆう意味?」「あ、ここもっと知りたい。」と言う気持ちと向き合う事を助けてくれる、これら複数の書物。
 
今日は、この数冊合わせて知る事が出来た、近代初期頃の貴族の‘あの装い’についての話。
 
 
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「服装と階級」の本のつづきを読んでいた。
 
 
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18世紀末頃にもなると、服地や装いが人の社会的立場と経済力を示すものであると言う認識は欧州社会の人々の中で深く根付いていた。
 
 
それまで何世紀にも渡って「服地」には階層身分を明らかにする‘文字で書かれない暗号’が織り込まれており、その服地を用いた装いは社会的立場を示すメッセージを発信するのであった。
 
貴族たちは階層身分社会を正当化するために‘身分とは、神の定めである’と言う思想を唱え、奢侈禁止法によって自分たちの‘豪華な装い’を独占し続けた。身分の低い者は毛皮や絹などの高級服地を買うことは許されず、数世紀に渡ってそれらの服地はエリートのための服地として‘保護’されていた。
 
 
そんな、‘装いと外見が命’であった貴族政治の時代がピークを迎えたのは「リネン」誕生の頃ではないかと、歴史家Daniel Roche氏はいう。
 
当時、リネンは多用途に用いられ、家庭内のシーツやテーブルクロス、ナプキンなどにも使われた。
 
そして服地と言う面においては「リネンと言えば – シャツやバンド(ベルトのようなもの)、ラフ(ひだ襟)、それから寝巻きや下着に- 最も適した高級生地」だったそうだ。
 
「高級生地である」事に加え、リネンにはもうひとつの価値があった。それは「とても丁寧なケアを要する、手間のかかる服地である」と言う事。丁寧な扱いが必至である事は、この服地を用いる者の社会的立場や優位性を示す事と密接な関係があった。
 
丁寧なケアを必要とするリネンが、富と権力の象徴に関係した例に貴族たちの装いを飾るラフ(ひだ襟)がある。
 
ラフ(ひだ襟)は一度着用し終わると、その都度一から新しく整形しなければならない装飾品であった。一度着用したラフ(ひだ襟)は洗濯されると一枚のリネン生地に戻り、およそ5時間もの時間をかけて再びラフ(ひだ襟)に作り直されるものであった。
 
装いに「時間と手間をかける事が出来る」と言う事も、贅沢さや富そして品格の証となるのであった。
 
 
 
 
 
 
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なるほど。「手間がかかる」「時間がかかる」事が贅沢と富の証となる事に、私は大いに納得した。
 
それにしても、貴族たちはおもしろい。
装飾的で豪華な服地で仕立てた服を纏い、金銀財宝で身を着飾ったその先は、‘ものすごく手間のかかる事’を意義とした更なる装飾品を装いに加えて自らの富を更に主張し、競い合っていたのか。
 
 
ペコラ銀座店主にこの話をしたら「あー昔のリネンってものすごい良いリネンだったんだろうな。あ〜〜〜〜見たいな〜、触りたいな〜。リネンって、本当、良いのがどんどん無くなってきてるんだよ。。。そうそう。実は今日、ちょうど、物凄く良いリネンを裁断したんだ。ペコラさんが良く僕に‘昔のアイリッシュリネンは最高だった’って言ってたんだけど、今日裁断したリネンは、僕がずっと見たいな〜と思っててやっと見つけた最高のリネン生地だったんだ。」と、生地マニアならではの反応を見せていた。
 
それから最後に一言「そういや、あの‘えり巻き’ってどうやって作ってたのかな〜?」と、店主の疑問が浮上した。
 
。。。
 
 
あの‘えり巻き’が、ラフ(ひだ襟)と呼ばれる富の象徴である事は分かった。でもそれをどうやって作ってたか?
 
わたしは側にあった「エリートの服装」の本を手にとり、読みはじめた。
 
 
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明白な実用性を持たないラフ(ひだ襟)からは、現代と近代初期の装いにおける‘感性の違い’が垣間見えるものである。
 
このチューダー王朝文化のアイコン的な装いは、絵画に描かれているが故につい想像してしまう‘永久性をもつ’イメージとは裏腹に、実は‘1日限り’という儚い宿命を持つ衣服であった。
 
ラフは、その形状を保つようには仕立てられておらず、それは洗濯する度に「作り直される」前提のものだった。
 
典型的なラフは、10メートルほどの細長いリネンから出来ている。そのリネンは数百ものプリーツに折られ、手縫いによっておよそ50cmの長さのラフ(首襟)が作られる。
 
一度着用された後のラフは、洗濯され、糊付けされ、プリーツに折られ、手で縫われたのちに、ポーキングスティックと呼ばれるアイロンを使って形がセットされ、再びラフとして生まれ変わる。
 
このラフが生まれ変わる工程にはかなりの時間と労力、そして高い技術が必要とされ、「‘1日限り’のラフを繰り返し毎日誂える」ためにはかなりの富と権力を要するのであった。
 
さらに、ラフは出来上がった後、ピン打ちによって首回りに固定して着用し、この着脱作業にも複数人の手助けが必要となった。
 
これらのことから、やはりラフは、身の回りの世話をしてくれる使用人に囲まれる貴族ならではの装飾品であった事がよく分かる。
 
 
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なんとまあ。知らなかった。
 
あの‘えり巻き’に、こんなにも時間と技術が注がれていたなんて。しかも、1度きりという儚い命。
 
時間を要し、技術を要し、装着には人の助けを要し、なんと言ってもこれを「毎日毎日‘誂え直す’ことが出来る」という事が、この‘えり巻き’に込められた富の象徴だったのだ。
 
それは、手間隙という名の富だったのだ。
 
 
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‘えり巻き’の事を知り、私が感じたことは「いかに時間と技術と、人の手をかけたか」ということに対して大いなる価値を感じる事の出来る人の感性が、ずっと昔から確かに存在したと言うこと。
 
そして「人の手作業、人の時間、人の技術」と言うものの価値は、金銀財宝にも勝る宝物であると言うこと。
 
 
 
 
それから思い出すのは、ペコラ銀座店主、佐藤英明の洋服づくりにおける信念である。
「どんな手間隙も惜しまず洋服づくりをする事。ひとつの手間を変えただけで、そのものの味わいが変わる。どんなに面倒でも、手間隙を惜しんではいけない」そして、「どれくらい手間隙をかけたかと言う事は、絶対に裏切らない」と彼は言う。
 
 
 
形を持たない「手間隙」と言うものが形にするのは、無限大の価値と言う宝物である。
 
その事を、‘えり巻き’の事を知る中で、あらためて感じるのだった。
 
 
 
 
 
 
  
memo…手間隙は惜しむべからず。何よりも大切なこと。
 
 
 
 

逆転の日曜日

こんにちは。黒田です。

 
 
 
 
 
 
 
ペコラ銀座お洋服研究日記。
 
<page.5>
 
〜逆転の日曜日〜

 

 
 
 
 
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引き続き、18世紀以降の英国における「服装と階級」の本。この本も手に馴染んできた。
 
産業革命を機に‘身分’から‘階級’の時代へと移り、産業化が進むとともに階級と服装の関係も色んな変化を遂げていくこととなる。
 
そんな中で19世紀後半に見られる労働者の装いの変化。今日はその話。
 
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前回の研究日記に綴った、‘すっ飛ばし読み’に立ち戻り挑んで以来、この本の筆者の書く文章がしっくりくるようになってきた。筆者の書く文章のクセに慣れてきたのか?本の中で出逢う考え方がわたしの中で蓄積されてきたのか?、、、その両方かな。
 
 
「服装とは、階級を識別する要素であると同時にそれを解消する要素でもある」- 筆者は自身のこの考えについて、いくつかの歴史的事実を述べながら書いている。
 
 
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経済的格差から派生した‘階級’は、文化的にも社会的にも人々へ影響を与え続けてきたものである。そのうえで、19世紀初頭の英国における工場制度の発展は当時の繊維産業、とりわけ綿産業との深い関係の中で発展した歴史を持つ。
 
18世紀後半〜19世紀初頭の英国綿生産業は、英領西インド諸島と奴隷制度と言う基盤のもと成り立っていた。この事から当時の綿紡績や綿織業の労働環境がいかに悲惨なものであったかは想像するまでもないが、この仕組みが‘階級’の為せる迫害と弾圧の最たる悪例である一方で、この仕組みを基盤にした綿産業はその後の奴隷制度廃止にもつながっていく。
 
肯定的な解釈が難しい歴史的事実ではあるものの、このような悪名高い労働環境の「規制」は、究極的には階級制度そのもの消滅への緩やかな道筋ともなったのではなかろうか。
 
 
 
 
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服地の産業からも垣間見れる、階級の歴史がある。筆者の言うように、肯定的な解釈が難しい歴史であるけれど、そこに切り込みを入れる事によって人々が動かし、変えてきた歴史である。
 
さて、19世期も後半になると産業化も進み、労働者の労働環境も少しずつ変わっていく。労働環境の変化とともに、労働者の装いにも変化が見られる。その中のひとつ、イングランド南西部の労働者の装いの変化について、これから書いていく。
 
 
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歴史家 Niel McKendrick氏は、人の装いについて「‘階級’の境目がぼやける様子を公衆にて顕とさせる最たるもの」と言う風に言っているそうだ。
 
また、英国のネイチャーライターであったRichard Jefferies氏は、1872年に次のような事を述べている:
 
「最近のウィルトシャーの労働者たちは、以前と比べ随分と装いが良いものだ」
 
さらに続けて、階級間でちょっとした逆転現象が起こっている事を指摘し、次のように述べている:
 
「労働者たちの基本的な服装は、コーデュロイのトラウザーズにスロップ(ゆったりとした上着)だ。スモックフロックはもうあまり着なくなった。。。それに、ほとんどの労働者が「晴れ着」を持っている、しかもかなり‘良い仕立て服’を。晴れ着は光沢のある黒、そしてそれに合わせて高いシルクハットをかぶるのだ。このところの労働価格上昇に伴って、農家の人たちの間でこんな格言まで出てきた – “日曜礼拝では、労働者は上質の黒羅紗を身に纏い、雇用主はスモックフロックを着て教会に来る”」
 
 
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この話を読みながら、当時のイングランド南西部ウィルトシャーの日曜礼拝の場面を想像してみた。まさに、逆転の日曜日。それまでスモックフロックといえば労働者の証とも言える象徴的な服装だったはず。それを、雇用主が着用して教会に来る。その横で、労働者は‘かなり良い仕立て’の黒羅紗の晴れ着を着て日曜礼拝に参加する。
 
産業化が進む中で、労働価値が上がり労働賃金も上がり、労働者は晴れ着を仕立てる事に金銭が回せるようになったのであろう。そして週に一度は最高の「晴れ着」を身に纏う、逆転の日曜日。なんて素敵な現象なのだろう。そこには階級を超えた労働者たちの品位を感じる。
 
それから、雇用主がスモックフロックを着ていると言うのも、なかなか素敵な心意気ではないか(当時のこの装いの逆転を表現する”格言”には、スモックフロックを着る雇用主に対する皮肉を含んだものかもしれないけれど)。
 
普段のお互いの装いが、日曜日になるとひっくり返る。
 
 
 
良いな。良いな。とっても良いな。
 
 
眩しいばかりの、逆転の日曜日。
 
 
 
 
 
 
 
そういえば、ペコラ銀座店主はよく呟いている「昔はお百姓さんも必ず一着は良いスーツを誂えていたんだよね」と。
 
良い洋服をたくさん誂えて着る事も素敵だし、たった一着の‘晴れ着’を誂えて着る事もすごく素敵。
 
 
それぞれに適った洋服の誂え方に、仕立屋さんとして最高の技術をもった仕立てで応えていきたい。
 
 
 
 
 
 
Memo…洋服は着数ではない。